おとつい、昨日、今日、明日

 

 

徐々に徐々になんとなくそうなのかも、というよりは、やっぱりいきなりドドンとやってくる方がインパクトがある。鮮烈。この再登場の仕方はおにゅさんセルフプロデュースだろうか?

 

 

 

4/3は仕事中にもぞもぞとずっとスマホを見ていた。でも自制しなきゃいけない環境でよかった。抑制されてなかったらえらいことになっていたかもしれない。

それまで小川のせせらぎぐらいだったタイムラインがすごい勢いで流れ始めたのをずっと見てた。もともと条件反射的なツイートができない性質の私が、最近はそれに輪をかけて慎重に言葉を選んでそろりとツイートボタンを押していた私が、栓が抜けたように一気につるつるとツイートした。一報があってからその日寝るまでにツイートした数を数えてみたら最近だと2週間かかって投稿するぐらいの量だった。激増。激変。

 

 

 

これ以降も出てくる情報ごとにどんどんと心情が変わっていったけど、

お:【所属新事務所発表】

ファ(私):わ、おにゅさん新しい事務所に所属するんだ!

お:bubbleのようなサービスをやるよ!

ファ(私):あ、所属発表だけじゃなくてアーティスト活動も少しずつ始めるのかな?

お:シンガポールでステージに立つよ!

ファ(私):え、ステージに立つんだ!パフォーマンスもするんだ!ほんとに活動再開なんだね!おめでとう!歓喜!!!!!!!!! 

ぐらいの大雑把な感情しか思いだせない…。あまりにも気持ちの移動距離が大きすぎてどこをどう通ったか自分でも辿れない…。

そして「あーそうだったそうだった。おたくはこうやって振り回されるものだった!」という喜びの徒労感も懐かしく蘇ってきた。いきなりやってきてこちらの心臓をぐわんぐわんと掴んだと思ったらすっと去っていくかんじね。これこれ。覚えてる。

 

 

 

おにゅさんがお休みの間どんなふうに過ごしたのかはわからないけど、写真を見ただけでも健康を回復するために努めたんだなと思うし、自分の進み方をこう決めたんだな、とこの300日のことを思う。

戻ってきた第一声が「오래 기다렸지? 고마워! 長く待ったでしょう?ありがとう」なのがとてもいいなと思っていて。「待たせてごめんね」でも「待っててくれてありがとう」でもない、”休んで心配を掛けた立場”として謝るような言葉からスタートしなかったところにおにゅさんのこれからの未来というかスタンスを感じるというか。もちろん今までだってそうなんだけど、”私たちファンとの関係はおにゅさんに主導権がある”ってことを改めて示されたようで気が引き締まったし気持ちよかった。心配しすぎる私(ファン)にむかって自分は庇護される対象じゃないよと言われた気分だ。

 

 

 

事務所インスタの最初のポストにある

GRIFFIN Entertainment は、その名を、貴重な遺物の伝説的な守護者に由来しており、アーティストの保護と育成に専念しています。 私たちは、アーティストが成長し、その独特の才能と才能を世界に輝かせることができる聖域を提供するよう努めています。

はおにゅさんがヨガをやっていることについて説明してくれた内容と同じような気がするし、今までは多くいる所属アーティストの中でスケジュールや機会を待ったり譲ったり諦めたりするようなこともあっただろう環境を脱して、自分がやりたいと思っていたことを実現させる場所をつくったのかなと思う。

おにゅさんならPDだって事務所経営だって上手くやるだろう。まだ数枚の写真と動画を見ただけだけど、新しいおにゅさんからはしたたかささえ伝わってくる気がして、どんどんと思うがままに進んでいってほしいなと思う。私たちが知らないような姿を見ることもあるかもしれない。変わっていく姿に追いつけなくなる時もあるかもしれないけど、それはそれだ。

 

 

 

あと、私は待っていた間に立ち止まって考えることができてよかったと思うことがいくつもあるから、自分のダメな部分を訂正しながら進んでいきたい。スーさん(ジェーン・スーさん。友だちではない)の「過熱した推し活はライトな人権蹂躙だ。」という言葉を忘れず携えて。

 

 

 

 

ツイッターの下書きにはメモみたいなものと一緒に、書くのに時間かかりすぎて書きあがったころには状況も自分も「まあもういいか」となりそのまま眠ることになったものがけっこうある。ぐねぐねと曲がりくねった軌跡を描きながらここまでやってきた記録として最近のだけでもここに貼っておこうと思う。これを今度見返す時はどんな心持ちでどんな自分なんだろうな。

 

 

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変わっていくこと

 

私がおにゅさんを好きになってからの3年ぐらいの間に「人ってこんなに変わるんだな」と何回も思った。

追っている時間が少ないのだからおにゅさんの何を知ってるのだ?と言われそうだけど私が知ってからの間だけでもどんどんと言うことや行動や姿が変わっていったように思う。

いつもそのことについて「どんな考えや影響で変わっていってるんだろう」と思っていた。

長い時間見てきたファンの方たちのおにゅさんの変化を語るツイートを読んで「そんなに変わったんだ」と思うことも何回もあった。

 

 

 

私がおにゅさんを好きになったのはAtlantisの活動が終わったぐらいの時だったから、好きになったとたんにシャイニーとしてのおにゅさんを見る機会がなくなってしまい、それゆえ過去の映像をこれでもかこれでもかと見た。そして過去の映像のおにゅさんと今のおにゅさんから受ける印象の違いを謎に思いながらその部分さえも「振れ幅が広い」「ギャップがある」として惹かれていった。いろんな顔、いろんな姿を見せてくれるおにゅさんを「いったいこの人はどんな人なんだろう」と知りたくてたまらなくなった。おにゅさんって何を考えてるんだろうとずっと考えてた。

 

 

 

そして去年、お休みが発表された時に「ああ、おにゅさんも自分を探してたんだな」と思った。「だから私になんかにわかるわけない」とも思った。そしておにゅさんの心の中をいろいろと憶測してしまっていたことを詫びて反省した。

 

 

 

過去から今に至るおにゅさんの何種類もの印象の違いは、おにゅさんがその時その時に見つけた立ち方でそこに立っていたってことなんだ。シャイニーのオニュとして立ち続けるための変化だったんだと思った。

なりたい自分、進んでいくこと、目指すもの、がキャリアを重ねて変わっていくのは当然だろうし、経験や自信によっておにゅさんが纏う雰囲気が変わっていったことも要因のひとつだろう。また、その時に自分に課されたもの、大切にしたいもの、環境や希望や体調や苦しみなどによって、変わっていかないとオニュとして立っていられないこともあったのかな、前にインタビューで「服務中、自分のことを考える時間が増えて、自分ってこんな人だったかもしれないと考えるようになった」って言ってたよな、常に考えて自分を探してきたのかもな、とも思う。考えて探してそれでやってみて、を繰り返して生きてきたのかもしれないと思うとしんどさの方を覚えてしまうけど本当のことはわからないから、それが心配するようなことだと勝手に判断しないようにしている。心配される人、として彼を捉えたくないんだ。

そう考えるようになりおにゅさんはこれからもどんどんと変わっていくんだろうなと思っていたから、bubbleがパタッと来なくなったのも、またオニュさんの中で変化が起こっているのかな?とぼんやり考えたりしてた。(外的な要因も大いにあると思うけど)

 

 

もし苦しみが生んだ変化なら早くその苦しみを取り除いてほしいと思うし、希望を見つけての変化なら恐れず進んでいってほしい。

bubbleをやめるというのは少なからずおにゅさんの意思が反映されてのことなのだろうから、おにゅさんが変わることを選んだんだと思うと、もしこれがさみしい未来につながる過程なのだとしても、なんだか少し晴れ晴れしい気持ちになるのが不思議だ。おにゅさんのしたいようにする一歩だと感じるからかもしれない。健康状態が理由なのだとしたらそれは心配になるけれど、それなら余計にやめるのはいいことだと思う。

 

 

 

みんな幸せになってね、自分も幸せになるよ、みんなで幸せになろうね、と絶えず口にしていたあの時期はおにゅさんが見つけたその時の自分の在り方だったのかな。その在り方にどんな意味があったのかはわからないけどいつもおにゅさんの言葉に嘘はなかった。と思う。その言葉たちからもらった愛情や安らぎ、bubbleで送ってくれたすべての言葉、写真、歌、つぶやきを宝物としてとっとくね。ありがとう。

 

 

 

bubbleを読み返してるとこんなに優しくてあたたかくて心のきれいな人はいない!と涙が出てきそうになる。でもそれはおにゅさんの言葉がbubbleにのってやって来ない寂しさというよりは、こんな愛しい人はいない!というものなので泣くのはこらえる。おにゅさん大好きです。よし。とりあえずbubble内で日付検索できないか調べよ。スクロールしすぎて指紋なくなりそう。

 

 

淡々としすぎかな…

 

MY SHINee WORLD を見た。

見る前はどうゆう気持ちで見ればいいんだろ?と少し不安になったりもしたけど(あまりにも「泣く」っていう感想が流れてくるので…)、今までのいろいろなステージを楽しく見た。ステージの上の彼らとそこにいたファンたちの15年間は幸せそうだったり悲しそうだったり楽しそうだったりしてそれらは美しかった。

私がシャイニーを知ったのは3年前なので自分の人生と重なっている部分は少ない。思い出したり振り返ったりすることがあまりないから冷静に見れるんだろなと思う。

あと、自分が共有していない部分の時間や映ってないものをあまり想像したり消費したくなかったから、見たものをそのまま受け取ろうと思った。彼らの心は彼らのものだから私のものにしないようにしたかった。何回か胸が苦しくなる時があったけどその時はそれまで以上に彼らをしっかりと見た。

彼らと同じ時間をすごしてきた人たちは蘇ってくるものや思い入れなどで心が大きく揺さぶられるだろうなと思ったけど、それを作為的に盛り上げるような過度な演出がなかったのも良いと思ったし、語らなくてもシャイニーとファンが共有しているものを尊重している構成が優しいと思った。

3人が落ち着いて穏やかに話してるところも好きだった。「そんなことがあったんだね」「そんなことを考えてたんだね」と思った。

どこかでファン目線の映画だと読んだ気がするけど(記憶違い?)、私はシャイニーにとってのファン映画じゃない?と感じた。

明確なファンへのメッセージとしてではなく(感謝とかお礼とか)、3人だけの会話の中にファンへの思いが出てくるのを見ているとより本音のように聞こえてきて(そうゆう風に見せているからだけど)、「シャイニーといつも一緒にいたファン」を彼らがあらためて実感しているように見えた。

実際映画ではファンとして顔が見えるのは部屋の持ち主だけで会場にいるファンの顔はほとんど映ってなかったように思う。ファンは会場を埋めるペンライトの灯りやかけ声や歌声として登場していたけどそれはひとりひとりの個人ではなく「SHINee World」という集合体として映っていて、私はその見せ方も好きだった(私は自分が何十万人?といるだろうファンの1人にすぎないってことを実感するのが好きなので……)。あの部屋の持ち主のようなファンが全世界にいて、その一人一人にとってシャイニーは人生や生活の支えになっているけど、シャイニーにとってもファンの存在はまたそうなんだということがしみじみ伝わってくるようだった。

今まで映画タイトルについて深く考えたことはなかったけど、ずっと「そばにいるっていうより持ってるってかんじがするのはなんでかな?」と思いながら見てたから、「My」が「SHINeeの」だと思うと私にはしっくりくる(私たちの、なら正確にはOurなんだけどね…)。そして所有格で自分(自分たち)のことを指されてもなぜかイヤな気がしない。「The SHINee always had SHINee world」を見せてくれた映画だったなというのが今の私の大きい感想だ。(英語あってんのかな…)

パンフレットとか他の人の感想とか読まずに見たから、これからそうゆうものを読んだりするとまた違った感触になるのかな?そしたらまた見直したくなるのかも。

平常心とりもどしました

 

 

移籍情報に取り乱しとにかくおにゅさんのことがすきでシャイニーのことがすきでおにゅさんがいなくてさみしいということだけをたらたら書いた文章を投稿し一晩寝て起きて改めて自分の文章を読んでみて「ちょっとなんか血迷っちゃったね…」と思うまでには落ち着きました。

 

 

よく考えたら、てむちゃんは今月末に契約終了するから移籍先が決まっているけど(いるんだよね?)、おにゅさんの契約は6月末までのようなので(情報を信じるなら)、まだ今は流動的な状況なのかも、と思い至りました。(今ごろ)

なので、まわりが騒ぐことでおにゅさんに迷惑がかかるようなことになったら困るので(私のここでのぐじぐじが影響するはずはないんだけど)、今までどおり落ち着いてシャイニーをすきでいようと思います。(昨日の投稿取り下げるかな…)

 

 

おにゅさんが自分でたいせつにしたいものがこれからもたいせつにできる未来がくるといいなと願います。

 

 

2024/03/05

 

自分を落ち着かせるため、頭を整理するために書いては消し書いては消ししてもぜんぜん文章にならないから昨日は諦めて寝た。かなり歯を食いしばり体にも力が入ったまま寝てたみたいで起きたら全身がっちがちだった。
このままだとずっと上の空で日常おくることになりそうだから今の戸惑いなどを正直に書いとこうと思う。なかなかに弱気です。取り繕えないし自分を言い聞かせたりもできないのでそのままでいきます。読んでもここには元気も安心もありません。(ミノくんの걱정마.を受けて最後のほう書き足した)

 


シャイニーのことは心配してない。してないの。シャイニーはシャイニーでいてくれると思ってる。でもおにゅさんはどうだろう?

 


ずっと「ステージに戻ってこない未来」がやってきたとしてもそれはしょうがない、と思ってた。自分がやりたいように何にも縛られず自由に生きてほしいと思ってるから。その気持ちは今も変わらない。けど、いざ、その未来が現実になってしまうかもと思ったら、いやーめっちゃ動揺した。頭で思ってることは自分はこうありたいという理想なだけであって、実際は全然取り乱した。取り乱しながら仕事してた。ていうか仕事にはなってなかった。ふー。

 


3人がドームや他のとこでもシャイニーのこれからについて話をしてくれるから、もし次のグループ活動まで時間がかかったとしてもいつかはまたシャイニーをやってくれるんだろうと思っている。昨日までシャイニーを続けていく間はみんな同じ事務所に所属するものだと思っていたけど、そうじゃなくなったとしてもシャイニーは続いていくんだろうとそこはあまり心配にならない。でもそこにおにゅさんがいるかどうかはわからない。時間はかかってもいつか戻ってきてくれるかもしれないと思っていた心が「今後の歩みについては、多様な可能性を開いて検討している」の一文を限りなくネガティブな方向で読み解こうとする。

 

 

私だっておにゅさんならどこの事務所に所属してても多くの人を魅了する歌手であり続けると思う。なんならもっとおにゅさんに適した事務所があるのかもしれない。けど、誰にも真似できない、溢れるほどのおにゅさんの才能をいくら周りが認めて、評価して、欲しても、それはおにゅさん自身が歌いたい、と思わないと何も叶わない。おにゅさんがシャイニーを愛していても活動するかどうかは別の話のように、そんな簡単な話じゃないと思ってしまう。

 

 

前から「信じる」ってなんなんだろうと思う時がある。
この話に限らずアイドルファンの人が発する「私は信じているから」というようなツイートを読んで、(前後の文脈によりはするけど)それは「こうであってほしい」というあなたの希望や期待を「信じる」という言葉で相手に要求してるのでは?と思うことがあるから。
おにゅさんが伝えてくれた「戻ってきます」を疑ったことはないけど、それは過ぎていく時間の中で変わることもあると思っているから私はそれを「約束」だと思ったことはない。
でもそんなことを考えてるのに昨日は自分が安心したいために早く事実やメンバーの思いを教えてほしいと思った。この選択が4人にとって最良なんだよと疑いなく信じさせてほしいと思った。待つしかないのに。私も「彼らなら私がほしい言葉をくれるだろう」と「信じている」からだと思う。信じるってやっかいだ。

そしてどこまでいっても考えていたことと直面した時の感情がちぐはぐな自分がおかしい。

 

 

4人がそれぞれのやりたいことを存分にやってほしい。やりたくないことはやらないでいられるといい。そしてもしこれからのシャイニーが3人になったり2人や1人になったりしてもみんなしあわせでいてくれるならそれもある形なのかなと思う。でも欲を言ってもいいなら4人で笑いあってるとこをもう一度見たい。

でもみんながそれぞれ進んでいく姿をこうやって見せてくれてるってだけで十分に一緒にいさせてもらってる感覚なんだよな。ついて行く、とかそういうんじゃなくて、シャイニーとしてこっちをむいてくれてるだけで、ただ見ている私たちをファンとしていさせてくれる。それだけでありがたいんだよ。

 

 

ここまでだらだらとネガティブを書き連ねてきた私が楽観的に捉えてることがひとつある。それはもしほんとうにおにゅさんが事務所を移籍するなら、リーダーという職務から解放されるのではないかと思えること。リーダーをやり続けるにしても、SMとの折衝ごとの責務は減るんじゃないかと想像するので、おにゅさんの責任感による心労も減るだろうと期待する!他の方も言っているようにキーくんとミノくんが残るのはその部分を担うためもあるのかなと思ったりする。

これはあくまで私の妄想なのだけど、時期からみておにゅさんが体調を崩した原因の中に去年の頭から発生した会社のごたごたもあるんじゃないかと思っている。会社の売却や所属アーティストの契約問題などで先の見通せない状況の中、自分のソロ活動と並行してグループを保つためのリーダーとしての心労はとても大きかったんじゃないかな、と。

去年のペンミの時キーくんが「おにゅひょんはリーダーとしての責任を負おうとする。リーダーはとても荷の重い役割だから潰れないようにファンのみなさんが頼れる存在になってあげて」と語っていたのがとても印象に残っていて。お互いのことを尊重して助け合ってきただろう4人でも、それでもなお相手のことが心配になることがあるんだと思った。だからその後おにゅさんがお休みすることになったのも4人の総意なんだろうなと思ったし、この人たちはどんな状況になってもお互いのことを大切にしていくんだろうと思った。

だから、この今回の2人が移籍するかもという変化はおにゅさんの負担を軽くして4人でシャイニーを持続させていくための現実的な新しい一歩でもあるのかなと思うのです!完全に自分の希望的観測でしかないけど!そうであったらいいなと思う。

 

 

はー、いっぱい書いた!ぐじぐじした!

ミノくんの걱정마.がどうゆうことを意味しているのかはわからないけど、私は「4人がしあわせになる道だよ」と言ってくれたんだと勝手に受け取っておく。ミノありがとう。シャイニーありがとう。だいすきです。

さ、切り替えて初めてのてむこんにむけて身を清めはじめるぞ🌊

星ひとつ

 

 

별 하나 がリリースされて2年だって。今日TLで知ってあらためて歌詞を読んだ。

 

おにゅさんが書く歌詞には  "深く静かな海の中”  や  ”星や月の輝きがなければ漆黒の夜空" のような「果てが見えない暗い(あまり明るさのない)世界」がよく出てくる気がする。おにゅさんの心の中のことは何もわからないけど、そのよく出てくる「果てが見えない暗い世界」は私がおにゅさんにもってるイメージそのものだ。(だからそういう連想になるわけなんだけど)

 

バブルやもろもろ、おにゅさんが使う言葉はいつもとても素敵なのに、どうしてアルバム曲におにゅさんの作詞したものが採用されないんだろう?とずっと不思議に思っていた。だけど、Circleについて「自分の書いたものは暗かったけどキムイナさんがそれを美しく爽やかにしてくれた」と語っているのを読んで「あれより暗いってどれだけ暗いものを書いたの!?」と驚き、そして採用されない理由が少しわかったような気がした😊

 

おにゅさんの歌詞から受ける暗い世界は、少しの先も見えなくて掴みたいものも掴めないもどかしさや寂しさとか、先が見えないからこそ世界が際限なく広がっていくような伸びやかさや自由さ、しんとした静けさの中にある穏やかさとかいろんなものを感じさせてくれる。

もちろん歌詞のすべてで自分のことを書いているとは思わないけど、その暗さがおにゅさんを包んで守っているのかな、そうだといいなと思う。

 

バブルは会話だし他者(ファン)にむけて選ばれている言葉だけど、歌詞は他者にむかわない分おにゅさんの中の宇宙を垣間見せてくれる気がするから、いつかまた書いて聴かせてもらえるとうれしい。

 

ミノくんの配信終わっちゃったっぽいな。間に合わなかった…。おにゅさんのお誕生日ももうすぐだね。コロナに罹っちゃって自分でワカメスープ作ってた日からももう1年だ。

 

 

じわじわと

 

この前のシャイニーが染み入ってきて自分の中で変化がおきているという話。

 

生活の隙間すきまで「キーくんの2着目の衣装ほんとかわいい」とかちょっとしたことを思い出したり、友だちと「半信半疑でフウ!フウ!言ったの楽しかったね」と1日目のことを振り返ったり、「2日目はミノがてむちゃんのスポをしたよ」という話を聞いたり、そんなかんじの数日を過ごして、昨日ふと「あぁそうか。これがおにゅさんが大事にしているシャイニーとファンなんだ。おにゅさんは今までずっとあそこに立っていたんだ」とようやくいろんなことが自分の中で繋がった。というかはっきりとした輪郭を持って実感した。

この前貼った感想備忘録メモに「同窓会みたいだった」と書いた「シャイニーとしゃおるが作るあたたかい時間」を経験して、シャイニーもファンもみんなが大切にしてきたものがようやく少しわかった、ということなのかな。

 

私は今までおにゅさんがいないシャイニーを見ることについて「そうゆう状況なのだから」「考えても仕方ない」となるべく深く考えたり感じたりしないようにしてきた。おにゅさんには何も考えずに休んでほしいから「待っている」と言うのも躊躇してしまう。だけど、そのようにできたのも、私が懐かしんだり比較するものを持ってなかったからなんだろうな。頭ではわかってたつもりだったけど、本当にはわかってなかったってことだ。

 

冒頭のことに気がついて以降「会場の真ん中で、メンバーと一緒に、あたたかい光に包まれるおにゅさんを遠くからでもいいから見てみたい」と思い浮かんできた光景がずっと頭にある。

 

私ももちろん、おにゅさんが健康になって戻ってきてくれるとすごくうれしいなあと思ってるけど、でもそれと同じぐらい、おにゅさんとキーくんとミノとてむちゃんが健康で幸せでいてくれるなら戻ってこない未来がやってきてもそれはそれでいいんじゃないかとも思っている。じゅうぶんすぎるほど伝わってくるおにゅさんのシャイニーを大切にしてる、大切にしたい想いは=活動する、とは限らないんじゃないかと思ったりするから。

今の3人はどんな未来でも引き受ける覚悟で立っているようにも見えたりして、メンバー4人それぞれのシャイニーを守るための選択、お互いのことを尊重し想いあっている4人が取る選択は、例えそれがファンの望むものでなかったとしても応援したいと思っている。

 

そう思っている反面、自分が傷つかないようにあまり希望を持たないようにしてきたんだということにも気がついた。極力おにゅさんが戻ってきた場面を想像しないようにしてきたのは、万が一その場面をもう見ることができないとわかった時のショックを少しでも和らげるための自衛策だったり、どんな状況がやってきても肯定できるような自分でいたいという無意識のコントロールだったのかな。つくづくネガティブな性格だよ…。

だから、自分の中で「このあたたかい空間の真ん中でファンから祝福されたり、メンバーと笑いあってるおにゅさんを見たい」という希望みたいな夢みたいなものが湧いてきたことが新鮮というか驚きだった。なんとなく今までこういったことを自分が思い浮かべること自体にも後ろめたさを感じていたから、シャイニーとしゃおるの空間に触れたことで「いやいいんだよな」と少しは思えるようになったということなんだと思う。それは他のファンの人たちの思いがわかったということではなく、「みんなにとって大切な場所なんだ」と肌で感じたことで起こった自分の中の変化だ。そういった光景を自分の目で見たいというよりそうゆう状況がやってくることを願っている。

 

とにかく、おにゅさん含めメンバーには幸せでいてほしい。辛くいないでほしい。幸せじゃなくてもいい、健康でいてほしい。それがファンの目に映るものであるならそりゃ嬉しいけど、そうでなくても別にいい。今までこう思ってきた気持ちにプラスして、あたたかい光の中にいるおにゅさんを待ち望む気持ちも否定せず持っていよう。