じわじわと

 

この前のシャイニーが染み入ってきて自分の中で変化がおきているという話。

 

生活の隙間すきまで「キーくんの2着目の衣装ほんとかわいい」とかちょっとしたことを思い出したり、友だちと「半信半疑でフウ!フウ!言ったの楽しかったね」と1日目のことを振り返ったり、「2日目はミノがてむちゃんのスポをしたよ」という話を聞いたり、そんなかんじの数日を過ごして、昨日ふと「あぁそうか。これがおにゅさんが大事にしているシャイニーとファンなんだ。おにゅさんは今までずっとあそこに立っていたんだ」とようやくいろんなことが自分の中で繋がった。というかはっきりとした輪郭を持って実感した。

この前貼った感想備忘録メモに「同窓会みたいだった」と書いた「シャイニーとしゃおるが作るあたたかい時間」を経験して、シャイニーもファンもみんなが大切にしてきたものがようやく少しわかった、ということなのかな。

 

私は今までおにゅさんがいないシャイニーを見ることについて「そうゆう状況なのだから」「考えても仕方ない」となるべく深く考えたり感じたりしないようにしてきた。おにゅさんには何も考えずに休んでほしいから「待っている」と言うのも躊躇してしまう。だけど、そのようにできたのも、私が懐かしんだり比較するものを持ってなかったからなんだろうな。頭ではわかってたつもりだったけど、本当にはわかってなかったってことだ。

 

冒頭のことに気がついて以降「会場の真ん中で、メンバーと一緒に、あたたかい光に包まれるおにゅさんを遠くからでもいいから見てみたい」と思い浮かんできた光景がずっと頭にある。

 

私ももちろん、おにゅさんが健康になって戻ってきてくれるとすごくうれしいなあと思ってるけど、でもそれと同じぐらい、おにゅさんとキーくんとミノとてむちゃんが健康で幸せでいてくれるなら戻ってこない未来がやってきてもそれはそれでいいんじゃないかとも思っている。じゅうぶんすぎるほど伝わってくるおにゅさんのシャイニーを大切にしてる、大切にしたい想いは=活動する、とは限らないんじゃないかと思ったりするから。

今の3人はどんな未来でも引き受ける覚悟で立っているようにも見えたりして、メンバー4人それぞれのシャイニーを守るための選択、お互いのことを尊重し想いあっている4人が取る選択は、例えそれがファンの望むものでなかったとしても応援したいと思っている。

 

そう思っている反面、自分が傷つかないようにあまり希望を持たないようにしてきたんだということにも気がついた。極力おにゅさんが戻ってきた場面を想像しないようにしてきたのは、万が一その場面をもう見ることができないとわかった時のショックを少しでも和らげるための自衛策だったり、どんな状況がやってきても肯定できるような自分でいたいという無意識のコントロールだったのかな。つくづくネガティブな性格だよ…。

だから、自分の中で「このあたたかい空間の真ん中でファンから祝福されたり、メンバーと笑いあってるおにゅさんを見たい」という希望みたいな夢みたいなものが湧いてきたことが新鮮というか驚きだった。なんとなく今までこういったことを自分が思い浮かべること自体にも後ろめたさを感じていたから、シャイニーとしゃおるの空間に触れたことで「いやいいんだよな」と少しは思えるようになったということなんだと思う。それは他のファンの人たちの思いがわかったということではなく、「みんなにとって大切な場所なんだ」と肌で感じたことで起こった自分の中の変化だ。そういった光景を自分の目で見たいというよりそうゆう状況がやってくることを願っている。

 

とにかく、おにゅさん含めメンバーには幸せでいてほしい。辛くいないでほしい。幸せじゃなくてもいい、健康でいてほしい。それがファンの目に映るものであるならそりゃ嬉しいけど、そうでなくても別にいい。今までこう思ってきた気持ちにプラスして、あたたかい光の中にいるおにゅさんを待ち望む気持ちも否定せず持っていよう。